ソボジロ

セミリタイア後の日常考

自分を捨てて大衆のなかの一人になる

あんまり斜に構えないで、楽しめるものはなんでも楽しんでしまうことが大事ではないかと考えるようになった。桜が咲いたならその下で酒を飲んだほういいし、暑くなったら海に行ってみるべきだし、ブルーインパルスが近くを飛ぶならベランダに出てみることだ。

私はスポーツが好きなので、オリンピックはかなりガッツリ見た。テレビをつければ何かしらがやっていて毎日が楽しかった。散歩をしていると、天秤の絵が描かれたオリンピック反対のポスターがあり片方は命、もう片方がオリンピックで、オリンピックの方が重くなっていた。そのポスターはどことなくコミカルで逆にオリンピックを盛り上げているように感じた。

反対している人たちをかわいそうに思うのは、彼らはオリンピックを楽しめないからだ。彼らのなかの多くは、反対さえしなければオリンピックを楽んだろう人は大勢いると思う。反対しつつ、競技は競技で楽しむというくらいの柔軟性があるといい。

オリンピックの開会式のときに国立競技場のまわりで反対のデモをしていた人たちは、打ち上げられた花火を見て、こんなものは見たくなかったとは思わなかったはずだ。空中を舞うドローンの大群に心が踊っただろう。だがそれらを楽しむためにそこに来ていたわけではないから「すごいね」なんて言い合うことはなかっただろう。

いや、案外、割り切ってその瞬間だけは楽しんでいたのかもしれない。デモというものはそこまでストイックなものでもない。デモをしている人はデモを楽しんでいる。

大衆のなかの一人になっしまうこと。大衆とは、オルテガいわく「みずからを、特別な理由によって――よいとも悪いとも――評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持になる、そのような人々全部である。」

自分はおろかなものどもとは違うと思って大衆を見下していると、何も楽しめなくなっていく。大衆のひとりとしてものごとを楽しむのは特別な自分を捨てていくことである。セミリタイア生活は自分を特別視しがちだから治療にもなる。

 

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