ソボジロ

セミリタイア後の日常考

エドワード・バーナードのように転落したかった

サマセット・モームの書いた「エドワード・バナードの転落」という短編小説がある。岩波文庫の『モーム短編集(上)』に収録されている。

1921年に書かれたフィクションだ。シカゴで事業に失敗したエドワードは婚約者を残して、再起を掛け単身タヒチに出向く。そして何年も戻ってこず、手紙も返さなくなる。そこでしびれを切らした親友が婚約者のためにタヒチに連れ戻しに行く。親友は、かつてシカゴにいたころの事業家のエドワードとは別人になっている彼を見つける。

話はシンプルで、エドワード・バーナードが「転落」するのである。

私も彼のように転落したいと思った。

《途中にも数件あったのと同じような一軒の店で、入っていって最初に目にした、上着なしで、小売り用の木綿を一定の長さ分切っている男が、エドワードだった。彼がそんなしがない仕事をしているのを見て、ベイトマンはショックを受けた。》

《みすぼらしい白麻のスーツを着ていたが、とても清潔とはいえない代物だった。大きな麦わら帽子は現地のものだった。以前より痩せ、すっかり日焼けし、相変わらずハンサムだった。だが、その様子にはどこかベイトマンを落ち着かなくさせるものがあった。歩き方には以前なかった快活さがあり、物腰に無頓着なところがあり、何となく陽気さがあった。ベイトマンとしては、どこがいけないとは非難できないのだが、とても不可解であった。》

エドワードは地元の恋人を待たせたままにして帰るつもりもない無責任な人間になっている。けれどもそういうさまざまな責務を放棄して、転落していくエドワードはそこに自分の幸福を見つける。

《試験のための読書だった。人と会話をするときの話題のための読書だった。知識のための読書だった。それが、ここでは楽しみのために読書するようになった。話すことも学んだ。会話が人生で最大の楽しみの一つだって、君知っている? でもね、会話を楽しむには余暇が要る。以前はいつも忙しすぎた。すると次第に、大切に思えていた人生がつまらない、卑下たものに見えはじめた。あくせく動き回り懸命に働いて、一体何になるというのだろう? 今ではシカゴを思うと、暗い灰色の都会が目に浮かぶよ。すべて石で出来ていて、まるで牢獄だな。絶え間ない騒音も聞こえてくる。頑張って活躍して、結局何が得られというのだ。シカゴで最善の人生を送れるのだろうか? 会社に急ぎ、夜まで必死に働き、急いで帰宅して夕食をとり、劇場に行く――それが人がこの世に生まれてきた目標なのか? 僕もそのように若い時期を過ごさねばならないのか? 若さなんてごく短い間にしか続かないのだ。年を取ってから、どういう希望があるのだろう? 朝家から会社まで急ぎ、夜まで働き、また帰宅して、食事して劇場にゆく――それしかないじゃないか! まあ、それで財産を築けるのなら、それだけの価値があるのかもしれないね。僕には価値はないけれど、人さまざまだな。だが、もし財産を築けないなら、あくせくすることに価値はあるのだろうか?》

 

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